映画界とテレビ界の関係についてもほぼ同様のことがいえる。映画大国のアメリカでは、かつてほどではないにせよ、映画俳優とテレビ俳優の間には、ステータスにしても収入にしても、また華やかさにしても明確な格差が存在しており、テレビ俳優として名をはせた俳優が映画に進出しても、ほんの脇役しか与えられない例は数多い。つまり、非常に高級なものとそうでないものとの間には明確な秩序が根強く存在しているのだ。
ブランドPRの手法にも、欧米と日本ではいくつかの相違が見られる。すなわち日本では映画と格差がないTVドラマを用いたPRが一つの効果的なPRの手段として用いられているのである。
LVMHジャポンが企画段階から参加したTVドラマに「ブランド」と「嫉妬の香り」がある。双方ともLVMHジャポンが、とくに前者ではクリスチャンディオールの日本法人が、衣装や香水、宝石の提供など、積極的に後援を行っている。
200|年がら、現在の通り創業者のフルネームにブランド名を変更し、意欲的な新作リリースを開始。「バトラビ」シリーズの名で知られる人気モデルが誕生します。
1888年、創業者力ール?F?ブへラがスイス?ルツェルンに開き、のちにョー口ッパを代表するような存在となった高級時計宝飾店が、このブランドのルーツ。1919年にはオリジナルの時計製造を開始し、「BUCHERER」のブランド名で知られるようになりました。
さらにムーブメント専業メー力一を吸収し、新設計の自社製作ムープメントの開発に成功。自動巻きながら口一夕一が機械の上で回転するのではな<、外周を走るように動くべリフェラル口一夕一を特徴とするのが、その自社製ムーブメントです。シースルーバックでも視界を遮らない新機軸は、業界内でも高い評価を得ています。
ロペルトは、「フイレンツェの家」を創業して以来、無名ブランドゆえに多くの壁につきあたり、苦心の経営を続けてきた。その打開策として、前述したような海外戦略を積極的に展開しようともくろんできた。
A氏がロべルトの顧問になったことで、ロべルトは、その戦略をより有効に展開できるようになったのだった。A氏が、かつて「
グッチ」時代に切り開いた人脈やコネクションをもとに、商取り引きの可能性のある相手に精力的にアプローチしたからだ。
ロべルトとA氏の二人は、息子たちには内密にしながら、さまざまな商談を進めていった。一九九七年に入り、ニ人が主な夕ーゲットとしてその照準を合わせたのは、スイスとアメリカだった。二人は、ロべルトみずからが運転する自家用車でアルプスを越えた。片道六時間。
私はファツション界の中に五十年ちかくいた人間です。今のファッションの危機的状況には責任の」っ嵐があると思っています。そして、ユニバ-サルフアツションこそが今峻彫に立たされているファッションの方向を示すものであるとの確信がありました。まず碗より始めよ。そう考えて一九九九年三月、「だれもがファッションを楽しめる社会」「二一世紀にふさわしい新しい美」の創造をめざして、ユニバーサルファッション協会を立ち上げ、初代理事長を引き受けることになりました。
当時の資生堂の池田守男社長に相談したところ、「ぜひやりなさい」と励まされ、資金の援助までしていただきました。会社につとめながらボランティアのNPO活動をゆるしてくれた資生堂にいまさらながら感謝の気持ちでいっばいです。
ユニバーサルファッション協会を立ち上げるにあたって、もう一人勇気を与えてくれたのは、三宅一生の先駆的取り組みでした。
彼がプリーッ加工の服を考案した時、そのサイズフリーで着こなし自由な発想はなんとも画期的でした。さらに、「夕ロワッサン」誌が、三宅一生のプリーツに身をつつんた、元気はつらつとした表情の稀代の女性運動家市川房枝女史を表紙に起用したことが、さらに話題性を高めました。
そのころ、パリのブティック街のような町が日本にも誕生します。「BIGI」「NICOL」「PINK HOUSE」「JUNKO」「KANSAI」といったブティックが原宿に出店して集積していきました。原宿では、「カラス族」と郷愉されながらもルーズな里一の服を着て、刈上げへア、太眉の女性たちが闘歩しました。ブティックには、ファツションのお手本となるような格好をした女性店員が販売にあたり、ハウスマヌカンとしてカリスマ性を発揮し、「夜霧のハウスマヌカン」という歌も誕生するほどでした。
また、デパートでの服の販売の仕方も変化してきました。それまでは、メーカーに関係なく〝広場''と呼ばれるスカートコーナー、ブラクスコーナーとアイテム別に
売り場がつくられていました。それが、コーディネート、スタイル提案を重視するようになって「ハコモノ」と呼ばれる独立したブースで、生産量の少ないDCブランドが販売され始めました。その結果、トップス、ボトムス、べルト、シューズなど串刺しにしたトータル•ファッションが可能になりました。海外デザイナーのブースも続々と進出し、ファッションンヨーを開催し、プロモーションを活発に行ないました。
「ハマトラ」から「セレブ」へ
一九七五年ー一九八〇年頃は、ニュートラといわれる保守的なファッシヨンやブランドが「JJ」「グァンサンカン」の記事で注目を集め、大流行します。「JJ」が提案したのが横浜・本町を発信源にした「ハマトラ」フアッシ、ンです。ミハマの鞭、フクノーのシャツ、キ夕ムラのバッグで装い、アメリカの人気TV番組「チャーリーズ?エンジェル」の主演女優ファラ•フォーセット•メジャーズをまねたサーファーカットの女性が閥歩する姿が目立ちました。